平林寺の禅匠たち

平林寺の開山

平林寺開山
石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師

臨済宗松源派の法燈

永仁2年(1294)筑前国生まれ。文保2年(1318)入元。多くの尊宿に参叩のち、金陵の鳳台山保寧寺(ほうたいさんほうねいじ)にて、偈頌と書蹟に優れた古林清茂(くりんせいむ)禅師に参じて印可を得る。帰朝後は山城真如寺(京都)の竺仙梵僊禅師に師事。博多聖福寺、京都万寿寺、天龍寺等を経て関東に入り鎌倉建長寺、円覚寺に住持す。

鎌倉より武蔵野国岩槻へ

永和元年(1375)岩槻城主大田備中守春桂薀沢(しゅんけいうんたく)居士の帰依により、平林寺開山として入寺。康応元年(1389)建長寺金龍庵にて遷化。96歳。文化2年(1805)第119代天皇の光格天皇より、禅師号直指見性禅師を賜る。

  • 石室善玖禅師 画像 石室善玖坐像
  • 石室善玖墨蹟 画像 石室善玖墨蹟

平林寺の再興

平林寺中興開山
鉄山宗鈍(てつざんそうどん)禅師

当代の禅傑

天文元年(1532)甲斐武田氏の家臣の子として生まれる。幼時に乾徳山恵林寺にて得度。天文20年(1552)恵林寺を辞して上洛し、天龍寺妙智院の策彦周良(さくげんしょうりゅう)に参学。のち妙心寺に掛搭し東谷宗杲(とうこくしゅうこう)より印可を受ける。信濃高遠建福寺、駿河臨済寺に住持。

平林寺中興の祖

天正20年(1592)中興開山として平林寺住持。戦火に焼失した寺の復興のため家康により招請される。門弟の雪堂宗瑜(せつどうそうゆ)に平林寺を託し駿河臨済寺、花園妙心寺へと戻る。元和3年(1617)妙心寺大龍院にて遷化。86歳。妙心寺80世。禅師号霊光仏眼禅師。
平成29年(2017)平林寺に於いて中興開山鉄山宗鈍禅師400年遠諱が営まれる。

  • 鉄山宗鈍禅師 画像 鉄山宗鈍像
  • 鉄山宗鈍墨蹟 画像 鉄山宗鈍墨蹟

平林寺専門道場の開単

平林寺第21世
峰尾大休(みねおだいきゅう)老師

僧堂師家の力量

万延元年(1860) 武蔵国に生まれる。明治12年(1879)鎌倉円覚僧堂に掛塔。今北洪川老師、釋宗演老師に参禅し印可を受ける。得度した八王子西笑院に帰参のち、横浜寳林僧堂(現在閉単)に晋山。また釋宗演老師に代わり円覚僧堂師家代参を務める。

平林僧堂開単

同34年(1901)平林寺に普山し、同36年(1904)関東初の妙心寺派専門道場となる平林僧堂を開単。豪放磊落な傑僧として地域住民から経済人、文化人に至るまで多くの信仰を集める。
昭和29年(1954)平林寺にて遷化。94歳。妙心寺585世。妙心寺派管長。臨済宗十三派が合同した折は臨済宗管長。室号韜光窟(とうこうくつ)。号は睡足閑人。法語集『韜光窟風懐録』、著作『白隠禅師開莚普説講話』。

  • 峰尾大休老師 画像 林泉境内にて
  • 峰尾大休墨蹟 関 画像 峰尾大休墨蹟「関」

平林寺第22世
白水敬山(しろうずけいざん)老師

鬼叢林の気概で

明治30年(1897)福岡県に生まれる。大正6年(1917)博多聖福寺にて得度、翌年聖福僧堂入門。のち「天下の鬼叢林」で知られた伊深正眼僧堂に転錫、小南惟精老師に参じ嗣法す。
昭和15年(1940)平林寺住職並びに平林僧堂師家に就任。専門道場としての基盤をととのえるべく僧堂の規矩を徹底し、また境内雑木林を寺領として守り抜いた。
こころを練る修行法として墨絵を用い、大休老師との合作品を数多く残す。同50年(1975)平林寺にて遷化。78歳。妙心寺645世。室号牧牛窟(ぼくぎゅうくつ)。語録に『敬山録』『牧牛窟閑話』。

  • 白水敬山師 画像 禅堂にて
  • 白水敬山筆 蘭吐春山古仏心 画像 白水敬山筆
    「蘭吐春山古仏心」

平林寺第23世
糸原圓應(いとはらえんのう)老師

僧堂を盤石に

大正15年(1926)島根県に生まれる。神戸正法寺にて得度。昭和22年(1947)神戸祥福僧堂に掛搭のち、同25年(1950)平林僧堂へ転錫、白山敬山老師に参じ印可を受ける。
同50年(1975)敬山老師を継いで住職並びに僧堂師家就任。修行の基礎を重んじ、何事においても緻密明晰に当たり平林僧堂を盤石に至らしめた。同62年(1987)敬山老師の念願でもあった『平林寺史』発行。平成26年(2014)平林寺にて遷化。87歳。妙心寺第675世。室号放牛窟(ほうぎゅうくつ)。

  • 糸原圓應老師 画像 見桃庵にて
  • 糸原圓應墨蹟 ○壺中日月長 画像 糸原圓應墨蹟「○壺中日月長」

平林寺第24世
野々村玄龍(ののむらげんりょう)老師

多くの雲衲を接化

昭和13年(1938)島根県に生まれる。京都龍安寺にて得度。昭和36年(1961)より平林僧堂にて白山敬山老師、糸原圓應両老師に参禅した。
川崎市壽福寺住職を経て、平成7年(1995)圓應老師を継ぎ、住職並びに僧堂師家就任。面倒見のよい性分で分け隔てなく門戸を開き、平林僧堂の隆盛を果たした。同23年(2011)平林寺にて遷化。73歳。妙心寺第697世。室号指月庵(しげつあん)。

  • 野々村玄龍老師 画像 陰寮にて
    撮影 原槙春男
  • 野々村玄龍墨蹟 静寂 画像 野々村玄龍墨蹟「静寂」

平林寺第25世
松竹寛山(まつたけかんざん)老師

次世代の雲水とともに

昭和34年(1959)長崎県生まれ。同61年(1986)平林寺専門道場に掛搭、得度する。糸原圓応老師に9年、野々村玄龍両老師に8年参禅。平成16年(2004)より4年間、京都花園大学非常勤講師。
同23年(2011)平林寺25世住職並びに僧堂師家就任。雲水教育に力を注いでいる。室号江楓室(こうふうしつ)。
臨済会会長。公益財団法人禅文化研究所理事。臨済宗妙心寺派東京禅センター顧問。

  • 松竹寛山墨蹟 無位真人 画像 松竹寛山墨蹟「無位真人」

平林寺専門道場の歴史

妙心寺派関東初の江湖道場

初代師家履歴

  • 平林寺21世峰尾大休(みねおだいきゅう)老師は、万延元年(1860)武蔵国南多摩郡(現八王子市)に生まれ、明治5年(1872)兜率山西笑院にて得度。受業師の示寂に伴い、同13年(1880)鎌倉円覚僧堂に赴き今北洪川老師に相見、掛錫を許された。同年、西笑院住職に就任するも参禅を続け、同24年(1891)洪川老師遷化の後は、遺命によって釋宗演老師に参禅し、印可を受ける。

  • 円覚僧堂を辞したのち西笑院に帰山、堂塔の修復等に勤めるなか、同31年(1898)円覚寺の本師宗演老師より招請を受け横浜寳林寺に晋山、寳林僧堂(のち閉単)師家に就任した。また円覚僧堂では宗演老師に代わり師家代参を務め、雲衲の接化にあたった。

専門道場開単の機運

  • 当時平林寺では、同32年(1899)に示寂した平林寺20世鉄牛祖印老師による、叢林建立と師家の拝請が遺命であった。平林寺法類と檀家総代大河内家との協議の末、同34年(1901)平林寺に大休老師晋山。
    住職就任と同時に、平林寺に掛塔を願う雲衲や在俗居士が続々と参集した。妙心寺派の専門道場が名古屋以東になかったこともあり、これを機に僧俗多くの賛同を得て、いよいよ平林寺専門道場開単の運びとなった。

  • 大休老師と雲水

    大休老師と雲水
    托鉢に際して 昭和20年

僧堂の基盤づくり

  • 妙心寺本山の認可を受け、同36年(1903)平林僧堂開単。当初は法堂や塔頭に単を並べての仮禅堂での摂心であった。昭和4年(1929)念願の禅堂が落慶。
    大休老師の後を継いだ白水敬山老師は、猛修行に励んだ伊深正眼寺の、厳格な僧堂規矩を平林寺に移し徹底。また「雲水の修行には大自然が不可欠」という信念のもと、平林寺の周囲約43haの広大な雑木林を都市開発から守り、寺領(境内林)として保持した。同43年(1968)平林寺境内林は国天然記念物に指定。こんにちの平林僧堂に到る基盤を内外共に築き上げた。

  • 雲水と作務に励む敬山老師

    雲水と作務に励む敬山老師(左上)

  • 平林僧堂のいま

    開単より120年の年月を経て、平林僧堂は多数の雲衲を輩出し、会下は全国に広がる。また妙心寺住持の世譜にも平林寺住持の名が連なり、宗門における関東を代表する江湖道場として、その存在は確固たるものとなっている。
    臨済禅の法燈を掲げて、武蔵野の禅刹では日夜、雲水が禅道修行に精進している。

石室善玖坐像

平林僧堂門